『虚子俳話』から

虚子曰く 「選といふことは一つの創作であると思ふ。 少くとも俳句の選といふことは一つの創作であると思ふ。」 昭和6年

 序

 終戦になつた昭和二十年頃だつたかと思ふ。まだ小諸の疎開地にをつた頃、膝を容るるに足る茅屋に大佛次郎氏が突然訪ねて来た。この方面に来たついでに訪ねたとの事であつたが、こんな話をした。
 「朝日新聞の東京版に、今度俳句を募集することにしようと思ふのだが、その選をしてくれないか。」
 大佛氏は朝日新聞社の意を受けて来たもののやうであつた。
 戦争の為めに各新聞の体裁も激変を来たして、それまで紙面を賑はしてをつた俳句は、戦争に関するものが時々載る位のもので、紙面から殆んど跡を断つてゐた。その時に当つて、俳句の為めに率先して紙面を割かうとする事は喜ばしい事と思つた。
 はじめは東京版のみであつたが、間もなく大阪(大阪)小倉(西部)名古屋(名古屋)にも及んだ。
 その後、昭和三十年四月から募集句に評を加へ、小俳話をも合せ載せることになつた。 これも新聞社の要望に依つてであつた。その俳話を集めたものが、この『虚子俳話』である。
 大東亜戦争が、日本国民の思想の上に大きな影響を齎した事は争はれない事実であらう。 当時新聞記者のインタビューには必ず戦争の俳句に及ぼした影響を聞くのであつた。私はそれに対して斯う答へるのが常であつた。
 「俳句は何の影響も受けなかつた。」
 新聞記者は皆唖然として憐むやうな目つきをして私を見た。他の文芸は皆大いなる影響を受けた、と答へる中に、又、私以外の俳人は大概、大きな影響を受けた、と答へる中に、一人何の影響も受けなかつたと答へるのは、痴呆の如く見えたであらう。
 その後、俳句界の論議がだんだん興つて来た。又、俳句の革新が叫ばれ、種々の新しい旗印が打ち建てられた。
 私は依然として、俳句は伝統芸術であり、花鳥諷詠(四季の現象を花鳥の二字で代表せしめ)の詩である、といふ言葉を繰返すばかりであつた。
 「深は新なり。」
 「古壺新酒。」
 私はこの二標語をも亦たここに繰返して置く。
 俳話のあとに、その執筆当時に出来た私の俳句を載せるのを常とした。これは俳話と何の関係もないものである。書物に纏めるに当たつて、省かうと思つたが、東都書房の窪田氏の勧めによつて其儘載せる事にした。

昭和33年1月6日
 鎌倉草庵にて
 高濱虚子

 俳句は季題の詩

 従来の俳句に季題といふものがつきまとうてゐるのは、何かさうしなければならん理由があるのだらうか。あると思ふ。併し仮りにこれは偶然の事だと考へてもよろしい。
 仮りに偶然の事から季題は俳句より離れる事が出来なくなつたとしても、それは俳句の特性として尊重すべき事実である。
 季題を俳句から排除しよう、若しくは季題を軽く見ようとする運動が一部にあるやうであるが、それも結構な事である。やがて新らしい俳句型の詩が生れるかも知れない。例へば川柳と号した俳人が川柳を創めた如く。けれどもそれが価値のある立派な詩となるかどうか。それを試みやうとする人には余程の忍耐と勇気を要する。
 私は俳句は季題の詩として今後も育てて行く事に安心と誇りを持つ。

昭和30年4月10日

 花鳥諷詠

 俳句といふものは、老練な者は老練なり、初心な者は初心なりに作つたり鑑賞したりしてゐるものなのだ。四季循環による現象、春夏秋冬の風光に心を留める事が出来るやうになる事は、俳句を学んで得る第一の徳である。生れながら心の高く深い人もあれば、低く浅い人もある。各々その天分に従つて俳句を学べばよい。学んでをるうちには低きより高く、浅きより深きに赴く事も出来る。先づ各々その天分によつて俳句を学べばよい。志が花鳥風月にあればよい。志が花鳥風月にあるといふ事、それが俳句によつて救はれた事になるのである。
 人間、社会万般の事は俳句の材料となり得る。而も四季の現象の中に現はれたる人間、社会の事に限る。それが俳句である。
 俳句界にはしばしば新運動が起る。それは花鳥風月に疑問を持ち、この縄墨を破らうとする運動である。私は単に詩としての花鳥風月否定論、若しくは軽視論ならば必ずしもこれを否まない。が、もともと花鳥風月を生命とする俳句にとつては無意味な事である。伝統詩たる俳句は「十七字」と共に「花鳥風月」といふ鉄則の許に存在してをる詩である。

昭和31年6月17日

 自然は大

 人は朋党を作り、社会を作り、国家を作つてをる。さうして自然の圧力に対抗してをる。さうして互にまた抗争してをる。
 人から見ると社会、国家といふものは身近く、大きなものに見える。
 自然からこれを見ると、ちつぽけな存在に過ぎない。文明が発達するにつれて、人間の力がだんだん自然を征服するが如く見える。
 自然は遥かに偉大である。宇宙は無辺である。
 人間が闘争を続ければ国家社会は混乱する。地球が破壊すれば人間は無くなる。
 自然はまた、人間に(動植物に)無限の慈悲を垂れる。万物は太陽の存在の下に生を保つてをる。
 日月星辰百花百草禽獣蟲魚、あらゆるものの存在の中に人間は生を保つてをるのである。
 書斎を出て縁側に立つ。三尺の庭にも尚ほ草木蟲魚がある。仰げば空は日月星辰を蔵して無限大に広がつてゐる。

昭和33年6月22日

 日本の文芸として

 時代思想といふ事がやかましく言はれる。今日に於ては殊に仰山に言はれてをる。時代思想といふものは、もとより今日に限られたものではない。徳川時代には徳川時代の時代思想があり、足利時代には足利時代の時代思想があつたわけである。併しながらそれ等を通じて一貫して日本人の精神といふものがある。
 時代思想に反抗してと言ふと語弊があるが、時代思想に煩はされずして、最も日本的な文芸としてわが俳句は、昔より今日に至つたものと言へる。これを時代に取残された文芸と言ふのは、言ふ人の勝手であるが、私はさうは思はない。いかなる時代をも貫通してゐる恒久的な日本の文芸として俳句は存在する。時代によつて多少の変化はあらうが、根本の花鳥風月の精神には変りはない。この花鳥風月の精神は寧ろ日本人の誇りとすべきものであらう。私はさういふ信念に立つてをる。
 子規を芭蕉時代に置いても、又芭蕉を子規時代に置いても、事俳句に関する限りは、格別変りは無いと思つてをる。
 又、今の時代に後れざらん事にのみつとめたものは、あわただしく転変する次の時代にはもはや時代後れのものとして取残されるものかもしれぬ。時代を超越した花鳥諷詠の俳句は、次の時代も、又次の時代も、常に特異な存在であり得るであらう。

昭和31年12月16日

 生々流転

 今年また私の庭の小さい池にいつか蟇や蛙が水に飛び込んだり這ひ上つたり「蝌蚪の紐」が浮かむやうになつて来た。

  この池の生々流転蝌蚪の紐 虚子

 まことに万物の生々流転の姿がわが心をひいた。春立ち、夏来り、秋去り、冬至る、一年の流転の忙しさが心を引く。
 この句はその心持を「生々流転」の文字で現はに表はしてをる。若しこの句をよしとする人があらば、そはこの「生々流転」と現はに言つた処にあるのであらう。併しながら、彼の、

  古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉

の景色を叙するのみであつて、何の主観の表現をせず、その中に生々化育の意を寓し得てゐるのといづれぞや。

  流れ行く大根の葉の早さかな 虚子

 大根は二百十日前後に蒔き土壌の中に育ち、寒い頃に抜かれ、野川のほとりに山と積まれて洗はれるのであるが、葉つぱの屑は根を離れて水に従つて流れて行く。水は葉をのせて果てしなく流れて行く。ここにも亦た流転の様は見られたのである。

昭和31年4月8日